此邦ニ生レタルノ不幸
検事調べのため地検への二度目の押送だった。
弁護士は毎日のように来てくれて、不起訴になるための材料(つまりは、任意捜査の限度を超えた違法捜査であったという根拠)をボクとの会話の中から探してくれる。
「できる限り黙秘を通すように。検事には、まだ弁護士と相談中で話さないように言われていると伝えてかまわない。調べでの調書にはサインはしないこと。」そう指示が出されてた。
話す言葉を手放すって、自分をなくすみたいで正直とても苦手だ。手段だということは百も承知なんだけど…やっぱり「黙秘」は性に合わない。だが不起訴のため、できる限り口チャックで頑張った。
検事調べては、調書にはサインでないと伝え、今回の逮捕の原因になったであろう錠剤を使用するに至った経緯についてサクッと説明した。
薬物依存症者を言い負かすなんて実にたやすい。「どうして手を出したんですか?」ときけばいいだけだ。何も言えなくなってしまう。そのことを検事ならよく知っている筈だ。例に違わず、ボクはその答えをいつも準備することができない。
だけどこの検事はフェアだった。その言葉を使わずに攻めてきた。
「使用した錠剤が覚醒剤だという認識はありましたか」
「ありませんでした。使う前は効けばいいなあと思っていましたが、実際に使用した感じでは違うと思いました」
「それは、覚醒剤だと思っていたということではないんですか」
「いえ。ボクは覚醒剤の効果がほしいだけなんです。覚醒剤じゃない合法の成分で覚醒剤に似た効果のある薬だったらいいなあと思っていました。実際に錠剤の覚醒剤は見たことがなかったですし」
「覚醒剤だと期待していたということですよね」
「違います。ボクは覚醒剤がほしいんじゃなくて、効き目が欲しいんです」
みっともない悪あがき。詭弁だという自覚はある。あゝ自己嫌悪。
刑務所に行きたくない。今の生活を取り上げられたくない。それだけが伝わればいい、それだけを叶えてほしい。ただそれだけのために、こんなムリクリな主張で自分を正当化しようとする自分がほんとに嫌になる。
「使用してしまうのは、欲求に作用してしまう脳の問題で、意志の力ではどうにもならないのはわかります」検事はわかった風だった。
「だったら不起訴にしてください」ボクは嘆願した。
「刑罰でなく治療という選択肢のある国もありますが、現在の日本の法律ではそうはなっていません。実際に覚醒剤の使用が影響した加害事件もあることですし」
フェアでわかってる風だが、やっぱりわかってないなと思った。
加害の可能性で数年間の懲役ってどうなんだ?加害事件なんてほんとにあるのか?ボクは毎日使っていた頃もあったが、誰かを傷つけるような衝動に襲われることなんて一度もなかったし、そんな場面に出会ったことなんかない。ボクは思ったが、さすがにそのまま伝えることはできず言葉を選んだ。
「ボクは仕事先に向かうために普通に歩いていただけなんですよ」
「そこを見抜いた捜査官の勝ちってことなんじゃないんでしょうか?」
噛み合っていない。そういうことが言いたいんじゃない。
ボクはしゃべりすぎたことに気づいて、もういいですという表情をして黙った。
この無言を検事がどう理解したのかはわからない’。
「いきさつはわかりました。今日の話の他に捜査方法について不満あるようですが、それについては次回話をきかせてもらいます」という言葉でまとめあげられた。
調書は作成されたが署名はしなかった。
検事室を出て、迷路みたいな長い廊下を手錠に腰縄で連行されながらボクは思う。
普通に反省して、普通に回復したいだけなのにどうしてこの国ではそれが許されないんだろう。普通に頑張って、普通に幸せになることが、途方もない夢物語に思えてしまえるなんて絶対におかしい。
ボクは刑事を憎みたくないし、検事を恨みたくない。人間を嫌いになりたくないんだ。だけどこの納得できない思いの昇華先も見つけたい。
待合室でボクは熟考した。そしてひとつ決心をした。
膠着した理不尽なシステム、考えることを手放した不寛容な社会、高らかな理念とはかけ離れた保守的な実践、そういうものを許さない自分でいようと。この待合室の椅子に負けないくらい硬い決心を忘れまいと確かに誓った。
『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』鈴木忠平
130球うまく投げて131球目のミスにダメ出しを食らわす落合監督に厳しすぎるとブーイングを浴びせる世論。
でもよ、世間さんよ、あんたらだって一回のスリップ(再使用)をこれでもかって容赦無く叩くでしょうよ。その前の使わないでいれた幾夜を評価はしないでしょうよ。
責めることができるのは関係性あってのものよ。