さよならさえ上手に言えなかった

さよならの挨拶ができなかったことが唯一の心残りだった。

通常なら担当から「ロッカーの荷物片付けて!」なり「明日の自弁はないから!」なり何かしら事前にその日に保釈になるであろうサインがある。そのタイミングで同室者に「お世話になりました」「みなさんもお元気で」と仁義を伝えることができるはずなんだが、ボクの場合、ちょうど昼の点呼の時間が保釈の告知と手続きに重なってしまった。ボクが呼び出され部屋から出たときにはみな午後の爆睡中だった。ボクはひっそり部屋を出た。きっと今頃「あいついつの間にかいなくなってるぜ」みたいな感じになってるだろう。不義理な別れだった。仕方なくではあるが申し訳ない。

いや、これは詭弁かもしれない。そんな勾留者同士の通過儀礼なんかどうでもよかったのかもしれない。その時の押収返却の受け取りの署名をするために手にしたボールペンがなぜか震えていたから。間違えなく穏やかではなかった。ボクは少なくともそのときのボクの指先をボクの意思通りに動かせてはいなかった。

留置所から出るのはもうこれで三回目…もしかしたら四回目だっけ?

ウブではないはずなのに…

起訴されてるのに…

どうせ懲役になるのに…

かりそめの自由なのに…

やっぱり嬉しかったのかなあ。起動したスマホの画面がやけにちかちか鮮やかに輝いてみえた。ボクは自分の本心がわからなかった。

出たら「マックフルーリー」を食べたい。そう連呼していた手前、食欲はなかったが最寄りのマックでとりあえず買った。過去の自分への責任だ。

自宅のポストを開けるとクラッカーが弾けるように郵便物が飛び出てきた。地べたに落ちたダイレクトメールやチラシに混じって年賀状が見えた。全くもっておめでたく思えない新年の挨拶たちを小脇に抱えてドアを開けたわが家は他人の部屋のように思えた。

やっと帰れたという安心感を心から噛みしめることが出来なかったのは、不在時にガサ入れで刑事が部屋に入っていたことを思い出したせいだろう。賞味期限が切れたヨーグルトと牛乳、コーヒーゼリーをシンクに流し、しわしわになったみかんをゴミ袋につめた。玉ねぎには緑に葉が繁っていた。気になっていたサボテンは枯れてなかった。生き延びてくれてありがとう。バスルームっで水をたっぷり浴びせると少し元気が出た。元気が出たら今度は罪悪感が湧いてきた。感情ってめんどくさい。

職場の上司、面会に来てくれた同士、気の知れた同僚に保釈になった連絡を入れる。みな優しい。「もう謝んなくていいですよ」と言われる。返す言葉が見つからない。「ありがとう」と「ごめんなさい」の間にある言葉をボクはどうしても見つけることが出来なかった。読書に浸りっぱなしの言葉漬けの年末年始だったのに…。本なんて役に立たない。

さよならも、ありがとうも、ごめんなさいも言えないボクは溶けていくマックフルーリーを立ったままかっ食らった。くしゃみがとまらない。悪寒がする。咳も出てきた。あゝせっかく温かい場所に戻れたっていうのに今夜はきっと眠れない。

 

収監まで後44日

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『魔女の封印』大沢在昌

設定は寄生獣?保釈になったせいで最後まで読めなかった。