殴られたあの日

年末年始、保護室に連行されていく者の多いこと多いこと。皆、エレルギーの出し場がないんだろう。

ボクは大声もそうだし、力でねじ伏せ合うような場面が苦手だ。大きなトラウマ体験があったわけでもないが…いや一度だけ殴られたことがあったっけ。もしかしたらあの日のことを思い出してしまうからなのかもしれない。

 

かつて家に帰れない年下の男を数ヶ月、自宅に居候させていたことがある。ボクを殴ったのは彼だった。

その日ボクは自宅でオンライン会議に参加していた。パソコンの向こうで彼はウォッカを飲みながら、上着を脱いでタトゥーだらけのその肌の隙間にマジックで直に新しい模様を描きこんでいた。それはとても異様な光景だった。

人が仕事をしているその前でどういうつもりなんだろう。

彼は彼でボクに対して思うことが何かあったのだろうが、そこまで気を回せないほどボクもいらだっていた。会議が終わりおもむろにボクは荷物をまとめ出ていこうとした。彼は「どこに行くの」とボクにたずねた。ボクは「一緒にいたくないからちょっと出てくる」と答えた。たぶんその時のボクの口調は尖っていたはずだ。その棘は彼の痛い部分を刺し、加虐の炎を湧き上がらせた。

キレる。その表現がいちばんマッチする場面だった。

彼は暴れた。ボクの胸ぐらを掴み、振り回し、壁に頭を打ちつけ、床に押さえつけ、馬乗りになって殴った。容赦のない拳だった。暴力に免疫のないボクはなすすべもなくやられっぱなしだった。彼は全裸になり「オレを誰だと思ってるんだ」と訳のわからない(意味はわかるが意図がわからない)奇声をあげてカーテンを引きちぎり窓をあけておらんだ。その姿は常軌を逸していた。刃物はやばいと思い、ボクは包丁とハサミをベランダから投げ捨てた。

うずくまっても髪をわしずかまれ頬をはたかれる。腹を蹴り上げられてあらわになった顔を踏みつけられる。もう痛みなんかなかった。「ごめんごめん」と謝ったが駄目だった。「大丈夫だから」と抱きしめたが無駄だった。近所に知られたくないと思いながら誰かに助けてほしいと願った。あと何発殴られればこの事態は収束するのだろう。なんだか『あゝ荒野』のラストシーンみたいだと思った。床にちらばる髪の毛が無残だった。ぶちまけられた牛乳に滑って転びながらも彼はまだ叫び続けた。裂けたカーテン。穴のあいた壁。引き剥がされたドア。彼が気絶するように倒れたときにははじめの一発から三時間が経っていた。

先に意識を失うなんて卑怯な奴だ。横たわる彼を見ながら警察に行こうか迷った。彼には前科がある。ボクが被害届を出せば実刑だ。気持ちよさそうにかくイビキを聞いて通報しないことを決めた。ボクは彼の罪を受ける権利を奪うことにした。ボクの尊厳を踏み躙った罰だ。

 

暴力を受けるとなんだか自分が小さくなったように思えてしまう。だからボクは暴力的な場面を忌避するし、どんな場面も認めない。たとえそれが留置所であってでもだ。

不健康な環境では不健全な記憶に支配されがちになる。早く出たい。早く出たい。早く出たい。ポジティブな自分に早く戻りたい。

 

収監まで後51日

f:id:cubu:20220226171654j:image

『神様からのひと言』萩原浩

色とりどりの背中に見慣れたせいなのか遠山の金さん的オチには「そんなことで?」と思ってしまった。