プロローグ

プライドを捨て、てらいを捨て、虚栄を捨て、できるだけ赤裸々に、たとえ露悪だと眉をひそめられてもそこに素顔の自分がいるはずだと信じていたから。結果、身ぐるみ剥がされ灰色のスエットの上下を着せられたしがない男が残された。これが真実なんだったら…人生なんてやってらんねえな。

 

その前日はハッテン場に泊まった。本当に久しぶりだったせいもありムラムラよりも、ワクワクに近いドキドキの心境だった。日曜の夜のやり部屋は閑散としており、二、三発こなしたあとは朝までぐっすり眠れた。

9時半に目が覚めロッカーでスマホをチェックすると職場からメールが入っていた。トラブルが発生したので現場に向かってほしいとの内容だった。ボクの仕事で路上生活者をサポートしている。体調をくずしたホームレスの男性からSOSが入ったらしい。場所は東新宿駅。ここから近くだ。今日は休みだったが特に予定もなかったので行ってみようと思った。身支度を整えて店を出た。東京の冬の空は高く晴れて広かった。

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駅を目指し歌舞伎町を歩いていたら駆け足で追いかけてくる警察官二人に「ちょっといいですか」と呼び止められた。職質だ。やばいと思った。かつて覚醒剤にドハマりしていたボクには違法薬物使用の前科がある。いいかげんもう使うのはやめようと、どうしても使いたくなった夜なんかには、酒を飲んで頭を酩酊状態にし、注射器にクエン酸と岩塩を混ぜてたものを静注して紛らわしてきた。それだけなら別に問題ない。アルコールは合法ドラックだし、クエン酸も岩塩も体によいとされている。それに自分の体に自分で針を刺す行為自体は(まっとうとは言えないが)違法ではない。だけど先週はそこに知人から「これいいよ」ともらった(正しくは5,000円で買った)正体不明の錠剤を砕いて混ぜていた。このオリジナルブレンドによる闇鍋ショットの効きは…少しあがったような気もしたが正直ピンとこなかった。が、左腕にはまだ注射痕が残っている。あれに何が違法な成分が含まれていたら…このまま免許証を出して前科を照会されたら…ビンゴになるのは確実だ。

逡巡しなかった。ボクは駆けた。どこを目指せばいいのかわからなかったので、さっきまでいたハッテン場に走り込んだ。お金も払わず奥の暗闇に飛び込んだ。もちろん警察官も追いかけてくる。タオルケットにくるまり息をひそめて様子を伺う。大勢の警察官がドタドタと駆け込んでくるのがわかる。見つかるのは時間の問題だとはわかっていたが動けなかった。「店員に言って電気つけさせろー」怒鳴る声が響く。ことの最中のゲイたちと大量の制服警官たちが明るくなったフロアにあらわになる阿鼻叫喚の地獄絵図を想像したら、店にも他のお客さんにも申し訳なくなった。ボクは自分から警察官らの前に姿をみせた。とはいっても覚悟が決まっていたわけではなく連行には全力で抵抗した。多勢に無勢、うまく転がされ、両手両足の自由を奪われたボクは神輿のように担がれて外に出された。

気づいたら体中傷だらけだった。前後左右を囲まれて身動きもとれない。白旗を出すタイミングを完全に見失ったボクは「オレ、エイズだからさわんな!感染るぞ」と叫んだ。四肢抑制時にも一切手加減しなかった警察官たちの手が一瞬とまった。明らかにひるんだ。一矢報いた気分になって満足し、あとはされるがままだった。

通行人が集まってくる。スマホで撮影してる女の子もいる。SNSにアップされたら世界デビューしてしまうと絶望した。

ある者は高圧的に、ある者は丁寧に、ある者は事務的に手を変え品を変えせわしく話しかけてくる警官たち。ボクはいっさい答えなかった。粘り足掻いた。それしかできることがなかったから。数時間後、私服刑事が礼状をもって来た。あの誰も救わないパトカーのサイレンの音をボクは一生忘れないだろう。

中野の警察病院へパトカーで連行され、強制採尿された。簡易検査キッドにスポイトで採った数滴の尿を垂らす。7分で結果がわかると説明をうけた。7分後、結果は偽陽性だった。ボクの半信半疑は科捜研にまわされ結果が出るまで持ち越された。数時間かかるらしく警察署で待機を命じられた。病院の地下の駐車場を出て、中野から新宿署へ…馴染みの景色がまったく知らない街に思えた。新宿署の取調室に入った時にはスマホの充電はすでになくなり、誰とも連絡はとれなかった。

調べの刑事は「オレ、暴力団の対応がメインなんだよね。なんかさ、歌舞伎町あたりでそういう暴力団関係の情報ない?クスリの売買とかの関係でもいんだけど」と聞いてきた。「知りません」と答えた。ほんとに知らなかったからそうとしか答えようがなかった。たとえ知ってても、門外不出の秘事をうたったりはしないだろう。そのことは言わないでおいた。

「ホームレスの支援とかしてたら元ヤクザとかみたいのもいるんじゃないの」と踏み込んでくる調べの刑事にボクは「それっぽいなと思う人はいますけど、わざわざ聞いたりしません。必要ない情報ですし」と答えた。「ふーん、そんなもんなんだ」と刑事はボクから暴力団に関する情報が得られないと判断したようで、ボクに興味をなくした。軽んじられてるなと思った。腹がたった。怒りがボクを開き直させた。ボクはまくし立てた。

「だいたい普通に仕事に行くために歩いていただけなのに、なんでこんな拉致みたいな目にあわなければならないんですか。たとえ尿から覚醒剤の反応が出たとして、ボクがいったい誰に迷惑をかけたっていうんですか?誰かを殴りましたか?誰かの物を盗りましたか?誰かを騙しましたか?誰も傷つけてないのにどうして警察はボクをこんなに目にあわせるんですか?平気で牢屋に入れようとするんですか?ボクは誰にも迷惑をかけずに生活していたつもりです。暴力団の資金源になるからとか加害行為の誘発になる可能性があるからとか、そんな間接的で不確かな理由でどうしてボクの人生は無茶苦茶にされなきゃなんないんですか。警察って事件起きないと動かないもんでしょう?まだなんの事件も起こってないじゃないですか。そもそも「ちょっといいですか?」って言ってきたのに全然ちょっとじゃないじゃないですか」

最後はもうほとん言いがかりだと自分でもわかっていたが抑えられなかった。刑事は何も言わなかった。調書にも書かなかった。「気持ちはわかるがそれが法律だから仕方ない」そう言う顔つきだった。

 

「科捜研の検査結果、覚醒剤の陽性反応が出たんで逮捕します」そう告げられ手錠をかけられた。体を縛られると心も動かなくなり言葉を失う。以後ボクは黙秘の男になった。

 

調べを終え、留置所へ連れられる。私物のチェックを終え、官物の灰色のスエットを与えられ着替える。ステンレスのドアに自分の姿が映る。

官本を一冊選ぶようにと言われボクは村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の文庫本の上を手にした。あてがわれたのはひとり部屋だった。

じっとしていたら内臓をぎゅーっと掴まれて動けなくなる感じがした。息ができなくなる痛みだった。わーっと叫びだしたかった。叫べればよかった。叫びの代わりにボクは本を力づくで壁に叩きつけた。全然足りない。叩きつけた場所に頭からぶつかった。血が流れればいいと思った。血は流れなかった。血の代わりにゲロが出た。床に落ちていた文庫本にかかってしまわないように配慮してゲロを吐いた。そしてボクは心置きなく硬い床にゲロまみれで倒れた。今日なんかはやく終わればいいのに。ついでに人生も終わってしまってかまわない。そう思って目を閉じた。独房の壁は消えたが意識は消えてくれなかった。「どうしたー」と留置担当が走ってくるのが遠くから聞こえた。

 

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世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド村上春樹

留置所はさしずめ「世界の終わりとハードボイルド・オンリーワン」である。

「正しいのは俺たちで、間違っているのは彼らなんだ。俺たちが自然で、奴らが不自然なんだ。そう信じるんだね。あらん限りの力で信じるんだ。そうしないと君は自分でも気づかないうちにこの街に呑み込まれてしまうし、呑み込まれてからじゃもう手遅れってことになる」(文中より)